大阪市の人口が200万人を突破し、東京市を抜き日本一の大都市となり、「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれたのは、大正末期から昭和初期にかけてである。 この時代の市政を担当したのが、第7代大阪市長の関一(せきはじめ)。彼は次々と都市基盤の整備を遂行したが、画期的であったのは、御堂筋の拡張整備と高速度鉄道(地下鉄)の建設と中央卸売市場の創出である。
大正7年(1918年)、大阪市は高騰を続ける消費物価を下げるため、公設市場を開設。第1号が福島公設市場だ。 しかし、その直後に米騒動が発生。物価安定が国の大きな課題となり、大正12年(1922年)に「中央卸売市場法」が公布された。全国にさきがけて政府から初の開設許可を得た、大阪中央卸市場は昭和6年(1931年)11月11日に開業。 17カ所の候補地の中から下福島に決まったのは、市内のほぼ中央に位置しており、水・陸運輸共に便利な条件が揃っていたからだ。「水の都」と呼ばれてきた大阪では、近代的な市場を創る条件の中でも、“川”の存在は大きな意味を占めていたのである。
また、福島区は繊維商業と自動車関連販売業が盛んであり、昭和初期にはキタ・ミナミに匹敵する繁華街として知られていた。市内13カ所の主要商店街のうち3つが福島区内にあったほどだ。戦災により壊滅的打撃を受けるが、聖天通商店街は現在、占いが人気で若い女性が注目するトレンドスポットのひとつ。シックな飲食店も増えている。次に新しいスポットとなると期待されているのが、朝日放送を核とする本プロジェクトが誕生する福島1丁目地区だ。