そして、大阪に本格的に近代都市の波が押し寄せてくるのは、1920年代から30年代にかけてである。大正14年(1925年)、大阪市は第二次市域拡張を行い、東成郡、西成郡を編入。その年の第2回国勢調査で、大阪市の人口は200万人を突破。 東京市を抜き、日本一の大都市となる。「大大阪(だいおおさか)」の誕生である。
この時代の市政を担当したのが、第7代大阪市長の関一(せきはじめ)。彼は次々と都市基盤の整備を遂行する。 中でも、御堂筋の拡張整備と、高速度鉄道(地下鉄)の建設は画期的であった。当時の御堂筋は淡路町から長堀川に至り、幅も3間ぐらいで細く(5.4m)、まっすぐではなかった。 関一は御堂筋を現在の43.6m幅(約24間)に拡張し、その下に日本初の公営地下鉄を走らせたのである。
「大大阪」はモダン大阪とも表現される。モダンとは現代的、当世風の意味だが、ここでは「近代的」と表現するのが最適だろう。近世・江戸時代の大阪の街づくりは、大阪城に通じる東西の通りがメーン・ストリート。それを御堂筋の拡張と、地下鉄運行(梅田〜心斎橋間)により、南北軸が中心の街へと生まれ変わったのである。 近世城下町から近代都市「大大阪」への大転換であった。
それは、住まいと職場、店舗と工場が混在する街から、都心部はビジネスセンターへ、郊外を住宅地とする都市政策でもあった。都心部では中之島界隈を中心に、ビジネス拠点としての近代的なビル建設がなされる。 中之島モダニズムの誕生だ。